ライカはこうして生まれた:ライカの歴史(昔と今)

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ライカコラム

ライカ 歴史

ライカはこうして生まれた

社会全体がデジタルな方向に向かっている中、ニューミュージック系やライブハウスに出演するシンガーや、ミュージシャンや歌手が1960年代や1970年代の歌をカバーしています。少し前までは、それらの歌は若者達に見向きもされませんでした。歌は世につれといいますが、きっと何かが、ライカはこうして生まれた今の若者達の感性に響くのでしょうか?

カメラ、写真にもそれがいえるのではないでしょうか?  デジタルカメラのブームですが、ちょっと銀塩に振り返って見ませんか?このコラムでは銀塩とコレクション的ではないライカのお話をしたいと思います。かしこまった話ではありませんのでお耳(ホームページ上ですからお目でしょうか?)を貸していただければ幸いです。

カメラには、いろいろな規格がありますが、近年の電子部分の規格は別として、機械部分の規格は、ライカが使ったものがそのまま規格になっている部分が多いのです。  ライカ1型ボディに、単体の距離計を付けるための部分の大きさと奥行きは、現代のアクセサリーシューになりました。  ライカの人気に影響されたコダックは、35ミリ判フィルムを使うカメラ“レチナ”を作ったとき、コダックのフィルムがライカでも使えるようにマガジン(パトローネ)の大きさをライカの物と同一にしました。そのころのコダックフィルムのパッケージには(for RETINA,for LEICA,for CONTAX)と書かれています。

ライカC型以降のレンズ交換のためのねじマウントは通称ライカスクリューマウントと呼びます。ライカコピーと呼ばれるカメラのマウントはほとんどがこれです。ライカタイプのカメラを作り始めたキャノンは、ライカに追いつけ追い越せがスローガンでした。ただ、ライカマウントという場合もありますがライカスクリュー・ライカM・ライカRの3種類のマウントがライカにあるので、ライカスクリューマウントとはっきり言うべきではないでしょうか?          

 

「ライカを伝えた日本の伝道師たち」

エルンストライツ社の日本代理店は、明治末期にはあったようです。ただし、その時代にはライカのカメラは発売されておらず、顕微鏡が商品でした。 1920年代中期に、ライカをいち早く日本に持ち込んだのは、写真が趣味の陸軍軍人石原莞爾とされています。彼の名は、昭和史に於いて重要な名前です。陸軍参謀として満州事変の火付け役といえるでしょうか?彼のことはここでは関係ありませんので省きますが、陸軍軍人石原莞爾の書籍はたくさんありますので、書店等でお探しください。
第一次世界大戦後にドイツに、留学していた彼は、発売直後のライカを見つけます。最初はたいしたことのないカメラだと店員に言われますが、これからのカメラだ!と思いたった彼は、さっそく日本にライカを持ち帰ります。500番台初めのライカは、カメラの近代化に築いた軍人によって日本に第1歩を記します。この機体は現存しないとされていますが、どこかに眠っているのでしょうか? ライカは、第1歩を日本に記しましたが、広める伝道師が必要になります。旧代理店の社員で、ライカにほれ込んだ井上鍾と、代理店社長のパウルシュミットをライカの伝道師と呼んでも過言ではないでしょう。これからのカメラの主流になるとシュミットは見たのでしょう。その後、井上に渡し使い込ませます。カメラにほれた井上は、シュミットから許可を得た上ですばらしい活躍をします。戦前の代理店が発行したパンフレットのほとんどは、井上が書いたとさえ言われ、その中でも有名なものに「降りかかった火の粉は払わねばならない」という名パンフがあります。

距離計連動コンタックスとライカのファンの間に起こった論争に、旧代理店が発行したパンフレットですが、井上が投げた名文はコンタックスファンを驚かせたほどです。ただし、本国に論争が起こったことが伝わったときは、第2次大戦が勃発したころで、本国では不思議がられたといい、起きえたとしてもそれどころではなかったでしょう。井上のライカに対する思い入れは、その後明石正巳が引き継ぎます。井上と明石の2人とコンビを組んで、その他にライカを愛用した木村伊兵衛もまた、伝道師に加えても差し支えないでしょう。 アサヒカメラ戦後復刊第1号の表紙を飾った木村伊兵衛の写真は、新しい時代の息吹と思える女性の写真でした。戦前から報道の分野で活躍していましたが、その中にも、ライカの特性を感性で使いこなした、街中の人々の生活の写真がありました。戦後はアマチュアの指導もしながら、ライカ使いの名人として活躍し続けました。 ライカ使いの名人でありながら初代のニッコールクラブの会長や、アサヒカメラのニューフェース診断室のドクターをなくなるまで続けた、ライカ使いの神様です。

ライカ 戦時中

 

ライカの戦時中の歩み

順調に伸びてきたライカに、そう第二次世界大戦に試練が訪れます。ライカのようなシステムカメラは、カールツァイスが、カメラ生産部門に当たるツァイスイコンに作らせた、コンタックスぐらいでしょうか?ほかにも、世界最初の一眼レフであるエキザクタなどがありましたが、ドイツ軍はライカかコンタックスしか使わなかったようです。
そのころの日本はどうだったのでしょうか?日本のカメラの歴史をさかのぼってみましょう。上海に出かけることの多かった、機械屋の吉田五郎(l900-l993年)が、ライカを見て“これだったら俺にも造れる!”とばかりに、自分の知識やネットワークを駆使して、試作機(カンノン)をつくり始めます。キャノンの源流は、ここから始まります。今で言う当時のベンチヤーな人材だったといえるでしょう。創めた場所は、東京の旧防衛庁の近くでした。BUT しかし機械工学を本格的に学んでいない吉田と、そのころの日本の機械技術ではライカに追いつけません。ライカをまねたカメラを作るので精一杯でした。その後、日本人が気にもしなかった特許の壁にもぶつかります。特に光学部門は、どうすることも出来ませんでした。当時の国内光学技術の最高峰の日本光学(現ニコン)しか、頼る場所はありませんでした。太平洋戦争前に発売されたキャノンカメラには、ニッコールレンズが付いていたのです。今考えると怖いものなしの組み合わせです。何とか出来たキャノン戦前型は、いくつかのバージョンがありますが、陸海軍に正式採用されましたが、戦局の悪化により、割と早い時期に生産停止に追い込まれます。その後は、逆に日本光学の下請けとして終戦を迎えます。

ドイツでは、旧西ドイツ側のライカのあるウェッツラーは空襲も受けずに、戦後すぐに生産を開始しました。ライカの名声が、ウェッツラーを空襲から救ったのかもしれませんね。BUT しかし旧東ドイツ側ドレスデンのツァイスイコンは、有名なドレスデン空襲で壊滅的な打撃を受けたカールツァイスイエナは、戦後米軍にエンジニアを引き抜かれ、カールツァイスオーバーコッヘン(現カールツァイス)と分離し、ソ連軍の占領下となった東側のツァイスは苦難の道を歩みます。コンタックスは、キエフとして旧ソ連で生産されます。西側で生産されたコンタックスは、1950年代末期に終焉をむかえ、ツァイスのカメラ生産は、1972年で終わります。その後、ヤシカ(現京セラ)との共同開発一眼レフ(コンタックスRTS)として名前は生産再開しますが、ドイツツァイス製のカメラは生産再開はしませんでした。一方でライカも、会社経営が苦難の道を歩みますが、エルンストライツ社からライカ社と名前が変わり、今なお生産をしています。小さな町工場からはじまったライカが、財団ツァイスを超える存在になったことは言うまでもありません。       

 

ライカの戦後からの復活!

1945年5月、欧州での戦火が消え、これより少し前に米軍占領下になった、ウエッツラーのエルンストライツ社は、生産を開始します。当初米軍占領下であったイエナは、改めて旧ソ連軍の占領下となり、カールツアイス社はイエナ(東側)とオーバーコッヘン(西側)に分かれ、東西統一後1マルクで、東側カールツアイスイエナは、西側カールツアイスオーバーコッヘンに吸収されると言う結末を迎えます。1945年に大空襲を受けたドレスデンのツアイスイコン社は、苦難の道を進みます。戦後すぐのライツ社は、資材の欠乏などで戦前の品質まで復活しませんでした。初期のIIIC戦後型のめっき部に、さびが多いのはこのためです。戦後に米軍占領下になったことでライカに変化が現れます。目立った変化は、シャッタースピードのBが戦後の英語表示になった事です。ちなみに戦前はドイツ語表記のZでした。もし、戦前に発売されたか戦後かの区別をしたいときは、ここを確認してみてください。(注意!ただし、中には当てはまらない物がありますので、参考までに。)
1950年代に入り、ドイツ国内も落ち着きだし、カメラの品質も戦前の物に戻りました。約10年のブランクを経て、満を持して新型IIIFが発売されました。写真界の流れが変わったことを受け、シンクロ同調機構が装備され、ストロボだけではなく、フラッシュバルブも各種対応になり、その中にはヨーロッパやアメリカのメーカーだけではなく、日本のメーカーも対応表の中に含まれていました。ただし、使うフラッシュバルブによって、対応表と上カバーに刻印されている数字を合わせるという煩雑さがあり、製造上のバラツキもはっきりする程だった様です。その一方で現在、万能レンズの名を得たズミクロン50ミリも発売されIIIFが開花した時代でした。

戦後のライカの快進撃が、ここから始まり、戦前のライカに何とか追いつきかけた日本のメーカーは、また追い越されます。BUT しかし朝鮮戦争でのニコンの高評価が、アメリカ市場でのライカの後姿を見せてくれます。BUT しかしそんなことは関係なくライカは確固たる地位を得て、進撃を続けますが、とんでもないところから横ヤリが入り始めます。ドレスデンで芽吹き、東側が育てた一眼レフ(エキザクタ)が、ヒタヒタと追いかけ始めます。アルフレッドヒッチコック監督の名画“裏窓”でジェームズスチュアート扮する、骨折で自宅療養中のカメラマンが覗いていたのは、一眼レフ(エキザクタ)でした。モナコの王妃になった故グレースケリーの出演した最後の作品“上流社会”でカメラマンが持っていたのは、ローライフレックスやライカではなく、日本のメーカー、日本光学製ニコンS2でした。 4年後の1954年、ライカにとっても日本のメーカーにとってもターニングポイントと呼んでもいい、ライカM3が発売されます。       

 

M3の誕生そして、ライカの販売戦略!

戦前からのライツ社には、フィルムの入れ難いことなど、様々な苦情があったようですが、ライツ社はオスカーバルナックの生存中には表立った動きをせず、彼の死後からライツ社はライカの開発に本格的に取り組み始めたようです。
IV型と呼ばれるライカのボディは、現在で言うバルナック型ライカに準拠したデザイン設計ですが、その後の開発で、一軸式不回転シャッターやファインダーの大型化、裏蓋の開閉などの現在のM型ライカの基本設計の機能がここで搭載されています。 第二次大戦中は、軍需産業が主流となりライカの生産は1944年にほとんどなくなり、戦時中にそれまでに作図されたIV型の図面は工場の壁に塗りこまれて、保存されたと言われています。

その後、ライツ社は不安だらけであった品質も落ち着いた1950年に、IIIfをライツ社の主力商品としてとして、1954年のフォトキナM3ライカを発表しました。それと同時に全世界の市場に一斉に5000台のM3を発売されました。 近年のフォトキナやカメラショー、またPMAなどの展示会ではそのショーだけで商品を見ることが出来、実物のカメラ等は半年から一年先まで市場に発売されないなど時差がありますが、1950年代にはもちろんインターネットも無く、航空貨物も現代みたいに発達していない時代に、事前に全世界販売を見据えて各国語版の説明書とパンフレットを作り、M3を5000台を用意して、発表と同時に一斉に市場で発売したという、いやいや、やってしまったライツ社!そのころのライツ社の底力には、当時のカメラ業界関係者は当然驚いたでしょう。この話を知った私もびっくりしました。 

ライカに追いつけ追い越せだった、世界の各メーカーは、ライツ社の見学に行った者に、まだ外貨が貴重だった頃に外貨をやり繰りして買って来る様指示を出したと言います。各業界団体も、手本とするライカの新型と言うことでカメラを購入し、同時期のライカ以外のカメラを含めて技術研究書を作り出版しています。 そのころの日本から見ると、ライカのハイテクで、マイスターで芸術的なファインダー光学が解ると、感嘆と落胆の声が上がったぐらい技術の差は明らかでした。その芸術的なファインダー光学系は、日本のカメラメーカーの方向を変えさせます。。。          

ライツ社

 

ライツ社が日本のカメラメーカーに負ける!?

第五章にも述べましたが、ライカM3の発売はライツ社の栄光をもたらしました。その反面メーカーとしての滅亡を招きました。何とかIIIfに追いつこうと思ったら、また引きはなされたりと変動がありました。 日本のメーカーはそれぞれ独自の開発をすすめ、キャノンは変倍ファインダーでライカにない機能を搭載し、ニコンは朝鮮戦争で寒冷地でも動くボディーと解像力の良いレンズを開発しました、それぞれの日本メーカーはライカを離しかけあるいは追い越しましたが、一方でライツ社は持っている技術を総動員して、対日本カメラ向けと言ってもおかしくないM3を発売し、日本メーカーを一気に引き離します。
ライカM3を見た日本のメーカーは、技術力に敬服しながらも高コストに失笑して、日本独自の道を歩み始めます。ニコンの商品でこのころ作られたのがS2であり、そこからSPへと替わりました。キャノンはバルナックタイプと惜別したVTが、それになるでしょうか?

しかしM3に追いつけないことが徐々に解ると、別なものを目を向けます。それは、旧東ドイツ領ドレスデン生まれのエキザクタを初めとする一眼レフです。しばらくの間は、ペンタプリズムが無かったり、40ミリ以下の広角レンズが無かったり、撮影直後にミラーが戻らずにブラックアウトしたりと使いにくい部分のあるカメラでしたが、ツアイスイコンドレスデンが開発したコンタックスDに、ダハ・プリズムが搭載されて上下左右正像となり、使いやすくなりました。

これから先の一眼レフカメラの発展に日本の各メーカーは賭けたのです。クイックリターンを開発しTTL露出計を内蔵します。ライカは残念ながら一眼レフには目を向けずに、M型に固執します。最大市場のアメリカで、徐々にですがシェアを日本製の一眼レフにとられていきます。販売店からの突き上げで、やっと重い腰を挙げることになります。

 

ライカの一眼レフカメラへの挑戦!

M2が発売されたのは、コストダウンのためでした。 ファインダー光学系を省略し、カウンターを手動セットにしセルフタイマーも省略しました。 が、突然としてM2のセルフ付きが現れます。これは、少しでもラインナップを増やして売り上げを伸ばそうというライツ社の戦略でした。
BUT しかし売り上げはジリ貧になります。 アメリカのディーラーからのヤイノヤイノとう声に負けたとされますが、そしてライカフレックスを発売することになります。ライカの一眼レフという声だけ聞けば、どれだけすごいものか!を心わくわくしますが、出てきたものは、1/2000が付いているとはいえTTLではなく、外部測光方式のやや大きめのボディでした。初期に発売されたレンズは外観がクローム鍍金されています。外部測光の受光部はペンタプリズム正面、ちょうどおでこの位置でした。レンズに反射した光を受光部が拾って誤測光することがわかったらしく、すぐクロームからブラックに変更されます。

日本の某メーカーのドイツ駐在員が、開発研究用にドイツ国内で発売されたものをすぐ購入し本社に送りました。バラバラにする前に調子が悪くなり、当時の国内代理店シュミットに持ち込んだところ、きっとライツ社からの資料は、黒レンズしかなかったのでしょう、こんなレンズが存在するわけはない!と喧嘩になったと聞きます。BUT しかしごく初期の販売品ということが解り、笑い話になったそうです。それだけ白のフレックス用レンズは珍品です。

全面マットではなく、中心に非常に細かいマイクロプリズムが採用され、当時アサヒカメラのニューフェース診断室で、「国産の一眼レフと違って、ファインダーの真ん中にゴチャゴチャなくて粋が良いですね~!」と意気込んでいたライカ使いの名手故木村伊兵衛氏が、あまりにもピントの山がつかめなかったのか、ピンボケを多数おつくりになったとか。。。 ライツ社にもIHEI,KIMURAの名前は響いており、それを聞いて次のモデル(SL)ではスプリットイメージを採用したという話しは、どこにも書いていないのであしからず!          

 

ライツ社 レンズ開発の試練!

ライカが発売された時代は、エルマー50ミリのF値が3.5という絞りは、明るいレンズでした。 フィルム感度はISO100はもちろんありません。今当たり前のように使われているISO400のフィルムなどは夢の夢だった時代だったのです。
F値が3.5以上の明るさのレンズは、ごく一部のカメラには付いていましたが、35ミリ用ではなく、50ミリF1.5というレンズがライカにつけられたことがあります。しかしこのレンズはライカ純正ではありませんでした。 ツアイスイコンが、コンタックスを発売したと同時に、ゾナー50ミリの1.5と2が発売されたのは驚きだったでしょう。約2絞り明るいということは、感度25のフィルムで1.5を使うのと感度100で3.5を使うのと同じことです。

ライツ社は、必死になって大口径レンズを開発します。F2は自社開発のズマールをつくりだし、1.5はシュナイダー社の協力を得て、クセノン50ミリF1.5を発表します。BUT しかしカールツアイス財団とエルンストライツ有限会社の差は大きく、画質の差は、歴然とします。大口径の望遠レンズがありませんので、戦前の日本で人気のあったボクシングの試合で、ライカで撮ったものとコンタックスで撮ったものを、それぞれ大きく引き伸ばすと、ツアイスレンズはびくともしていないのに、ライカレンズはボケボケで使い物にならず、そういう撮影のときだけコンタックスが使われました。

そのころの日本のカメラはというと? ハンザキャノンにはニッコール50ミリの4.5/3.5/2.8/2.0/1.5がありました。(マウントの構造上交換レンズはなく、ボディが数種類あったために5種の標準レンズが存在しています。)1.5については金物は日本光学が作り、中身はゾナーではないか?というぐらい高性能だったと聞きます。 このように、光学系の発展はめまぐるしく進んでいきました。  

ライカ レンズ

 

レンズ光学の進化

ライカズミクロン50ミリは、スクリューマウントで発売されますが、日本での評価はMマウントが発売されてからです。
 ライカM2が掲載されたアサヒカメラ1959年4月号のニューフェース診断室で、固定鏡筒ズミクロンがそれまでの最高解像力を示し、その記録は、今もって破られていません。それに挑んだのがキャノンの50ミリF1.8で、部分的には、ズミクロンを超えたところもありますし、このレンズを設計したキャノンの設計者は、後に叙勲を受けています。

その後も、ライツは、レンズのヒットを打ちます。35ミリ初のF1.4ズミルックス、名レンズの誉れ高いズミルックス50ミリなどなど。(キャノンは35ミリF1.5を出していますが、中古市場ではあまり見ませんね~)

そして1966年、大ホームランが生まれます。ノクチルックス50ミリF1.2がそれです。世界初の非球面採用レンズで、現在は、フィルムコンパクトカメラやデジタルカメラ、ビデオカメラやCDプレーヤーにも採用されていますが、当時は工業的に作ることは困難で、当時のライツは手磨きで作ったとされます。現在ではタイヤキを作るようにプレス成型で作った非球面ガラスレンズ、ガラスの表面にプラスチックの非球面を貼り付けるハイブリッド非球面、あるいは完全プラスチックプレス成型非球面などありますが、どのレンズもそれを作り出す金型が命です。プレス成型ガラスレンズは、コダックがディスクカメラで採用したのが、ハイブリッドはミノルタα7000用AF35-70ミリが最初でした。プラスチックはコンパクトカメラのレンズで以前より採用されていました。

 現在ライカMの広角系レンズは、画面周辺の画質向上が主流で、すべて非球面が採用されています。なぜ非球面レンズが広角標準系に使われている率が多いかなど、もっと知りたい方は専門書をご覧ください。     

 

フィルムとカメラの融合

カメラの話からはなれて、フィルムの話を少しします。 ライカの発売当初、現代のような35ミリ判のフィルムはありませんでした。この当時に何を使っていたというと映画用のフィルムを切って使いました。 又、現代のように粒子の細かいフィルムも無く、その性能を引き出す現像液もありませんでした。粒子の細かいフィルムはあることはありましたが、感度が低く(現在の感度換算でISO8前後)全ての色に感じる性質のあるフィルムも、ありませんでした。(色に感じなければネガ上ではなにも写らない)
アグファをはじめとするヨーロッパのフィルムメーカーは、ライカの人気が高まると、36枚撮りの長さにフィルムを切って売り出し始め、長いフィルムを切らなくて済むようになり、入手がしやすくなります。ただし、今のようにパトローネには入っておらず、紙に包まれ3本缶入りでした。 当時のカメラマンはどうしていたかというと、自分でマガジン(再利用できるなっているパトローネ)に詰め替えました。(ライカ社は、マガジン2本付きで売っていた時期があります。)

現像液も、多種の処方が発表されますが、帯に短し襷に長し(粒子は細かいが時間がかかったり、感度が落ちたり等々)でしたが、映画がサイレントからトーキーになるに従い、音声の入る部分の現像が今までの処方ではうまく行かないことが判り、コダックがある処方を発表します。 D-76といわれる処方で、感度低下もなく、粒子も大きくならず、それまでの処方がいささか見劣りさえするほどです。これにより他の処方は廃れ始め、各フィルムメーカーともD-76処理を基準に、独自の処方を開発し現在でさえ標準現像液といわれます。

ライカ用のカラーフィルムは、1935年以降に現在のようなフィルムが生まれます。 世界初のカラースライドフィルムは、コダック社のコダクロームですが、開発には2人の音楽家が関係しています。彼らは、自分たちのアイデアを元にコツコツと開発を行い、コダック社に売り込みます。アイデアに感心したコダックは彼らを引き入れ総力で開発し、実を結びます。

アグファは少し遅れて発売し小西六(現コニカミノルタ)は戦争直前に発売しますが、フジは間に合わず戦後の発売になります。 イタリアでもフェラニアカラーが発売されます。これ以降世界各国でカラーフィルムが発売されますが、必ずこれらの国の技術にたどり着きます。東京オリンピック以降、それまで国産2社は、カラーフィルムは輸出しておらず処理も専用のため、世界シェアの大多数を占めていたコダック処理で現像が出来ないことがネックになっていましたが、カラーネガからコダックコンパチの処理を開始しました。今ではアメリカ市場では他社より、フジフィルムのほうがシェアを持ってきています。

カメラ検定

 

カメラ検定 part.1

数年前、某お台場の放送局の深夜番組に、ビョーキ人向けのクイズ番組があったのを覚えていらっしゃいますか?私は、毎回見ていたわけではありませんが、なかなか面白かった記憶があります。
で、その番組タイトルをいただき、ここでクイズをやることにしました。BUT しかし出題担当がへそ曲がりですので、コレクションな問題は一切ありません。ライカがおかれた時代あるいは、時代背景がベースの問題が大多数ですが、一部、ビョーキ的問題もあります。質問文や回答にライカの文字が無い物もあるので、あせらずに!なお、資料によっては違う回答が存在するかもしれません。

【問題】
第1問、ライカの意味は?
第2問、ライカってどこの国製?
第3問、ライカのスペルは?
第4問、スペルがRから始まるライカはある?
第5問、画面サイズは?
第6問、第5問の寸法をなんという?
第7問、オリンパスペンなどの24x18をなぜハーフ判と言うのか?
第8問、24x18の別な言い方は?
第9問、戦後、ニコン・オリンパス・トプコン・ミノルタが採用した画面サイズは?
第10問、第9問で採用したサイズの理由は?
第11問、ライカの昔の所在地は?
第12問、ライカの昔の正式社名は?
第13問、その名前の意味は?
第14問、北米大陸にある分工場の名称は?
第15問、分工場の今はどうなった?
第16問、昔のアメリカの代理店は通称何といった?
第17問、第16問の理由は?
第18問、今の正式社名は?
第19問、今の所在地は何州?
第20問、今と昔、有限はどっち?
第21問、ライカを発売したとき、社主は父親か?息子か?
第22問、開発者は?
第23問、レンズ担当者は?
第24問、ツアイスの作った対抗馬は?
第25問、カメラの前は何を作っていた?
第26問、試作機に付いた最初の標準レンズは?
第27問、次の標準名前の意味は?
第28問、開発者は何を作りに入った?
第29問、彼はツアイスに居たことは?
第30問、彼の持病は?
第31問、亡くなった原因はそれ?
第32問、図面は引いた?
第33問、現在の国内代理店は?
第34問、戦前から80年代初めまでの代理店は?
第35問、戦前の正式名称は?
第36問、ここが、戦後一時期作った用品のブランドは?
第37問、創業者は?
第38問、どこの国の人?
第39問、彼に関係する国内の観光地は?
第40問、戦前に出た名パンフは?
第41問、書いたのは誰とされる?
第42問、なんと言う雑誌に触発された?
第43問、それを書いたのは誰とされる?
第44問、この会社に居た事のある有名な修理業者は?
第45問、彼の事務所のあった場所は?
第46問、彼のかかっていた病は?
第47問、そのせいでどうなった?
第48問、80年代までの代理店の営業部長として名を馳せたのは誰?
第49問、彼が一時期国内販売権を持っていたアメリカの用品メーカーは?
第50問、社長と営業部長が名づけた写真名人は誰?

 

カメラ検定 part.2

大変お待たせいたしました。
それでは回答です。
難しいと感じた方はいらっしゃいますか?その方は全くといっていいくらいライカウィルスにかかっていないでしょう。こんな簡単な問題!と思われた方は?亜棚のライカウィルスは、完治しないかもしれません。
後編で直るわけではありません。ひょっとしたら悪くなるかも・・・・。ではじっくりとお楽しみください。

回答から
第1問、ライカの意味は? エルンストライツのカメラ
第2問、ライカってどこの国製? ドイツ
第3問、ライカのスペルは? LEICA
第4問、スペルがRから始まるライカはある? シンガー(歌手)
第5問、画面サイズは? 24x36
第6問、第5問の寸法をなんという? ライカ判
第7問、オリンパスペンなどの24x18をなぜハーフ判と言うのか? ライカ判の半分
第8問、24x18の別な言い方は? シネサイズ
第9問、戦後、ニコン・オリンパス・トプコン・ミノルタが採用した画面サイズは? 24x32日本判
第10問、第9問で採用したサイズの理由は? 枚数が4枚多く写せ印画紙の比率サイズにマッチ
第11問、ライカの昔の所在地は? ウェッツラー
第12問、ライカの昔の正式社名は? エルンストライツ社(有限会社)
第13問、その名前の意味は? 創業者の名前
第14問、北米大陸にある分工場の名称は? カナダライツ社
第15問、分工場の今はどうなった? ヒューズエアクラフト社に売却
第16問、昔のアメリカの代理店は通称何といった? ニューヨークライツ社
第17問、第16問の理由は? ニューヨークにあったから
第18問、今の正式社名は? ライカカメラインク(USA)
第19問、今の所在地は何州? ニュージャージー州
第20問、今と昔、有限はどっち? 有限会社は昔
第21問、ライカを発売したとき、社主は父親か?息子か? 息子(エルンストライツⅡ)
第22問、開発者は?オスカーバルナック
第23問、レンズ担当者は? マックスベレク
第24問、ツアイスの作った対抗馬は? コンタックス
第25問、カメラの前は何を作っていた? 顕微鏡
第26問、試作機に付いた最初の標準レンズは? ライツアナスティグマット
第27問、次の標準名前の意味は? エルマックス(ベレクの飼い犬)
第28問、開発者は何を作りに入った? 映画用カメラ
第29問、彼はツアイスに居たことは? ある
第30問、彼の持病は? 喘息
第31問、亡くなった原因はそれ? YES
第32問、図面は引いた? 基本設計のみでほとんど引いていないらしい
第33問、現在の国内代理店は? ライカカメラジャパン
第34問、戦前から80年代初めまでの代理店は? 株式会社シュミット
第35問、戦前の正式名称は? シュミット商会
第36問、ここが、戦後一時期作った用品のブランドは? アクチナ
第37問、創業者は? パウエルシュミット
第38問、どこの国の人? ドイツ
第39問、彼に関係する国内の観光地は? 箱根(別荘がありフジヤホテルのシュミットハウスに名を残す)
第40問、戦前に出た名パンフは? 降りかかる火の粉は払わねばならない
第41問、書いたのは誰とされる? 井上鍾(後の株式会社シュミットの社長)
第42問、なんと言う雑誌に触発された? アサヒカメラ
第43問、それを書いたのは誰とされる? 佐和九郎
第44問、この会社に居た事のある有名な修理業者は? 貫井提吉
第45問、彼の事務所のあった場所は? 麹町
第46問、彼のかかっていた病は? 小児麻痺
第47問、そのせいでどうなった? 左手が不自由
第48問、80年代までの代理店の営業部長として名を馳せたのは誰? 明石正巳
第49問、彼が一時期国内販売権を持っていたアメリカの用品メーカーは? コスタイナー(水洗機)
第50問、社長と営業部長が名づけた写真名人は誰? 木村伊兵衛

皆さんはどれくらい正解できましたか?